やくざと人権、治安維持とか

全国で暴排条例施行「異様な時代が来た」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111001/crm11100112010000-n1.htm

あまりしっかり調べられてないけど、時機を逃すと意味がないので言いたいことだけ書いておこう。

これにより、暴力団の資金源根絶を目的にした暴排条例が全都道府県で出そろった。

全国で条例整備が進んでいたということについては知らなかったので、とりあえず調べてみた。

暴力団排除条例」の制定について – 警視庁ホームページ
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/sotai/haijo_seitei.htm
暴力団排除条例 – Wikipedia.ja
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E5%9B%A3%E6%8E%92%E9%99%A4%E6%9D%A1%E4%BE%8B
島田紳介さん芸能界引退と暴力団排除条例について若狭弁護士の解説
http://megalodon.jp/2011-0826-1022-46/www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00206097.html

異様な時代が来たと感じている。やくざといえども、われわれもこの国の住人であり、社会の一員。昭和39年の第1次頂上作戦からこういうことをずっと経験しているが、暴力団排除条例はこれまでとは違う。われわれが法を犯して取り締まられるのは構わないが、われわれにも親がいれば子供もいる、親戚もいる、幼なじみもいる。こうした人たちとお茶を飲んだり、歓談したりするというだけでも周辺者とみなされかねないというのは、やくざは人ではないということなのだろう。しかも一般市民、善良な市民として生活しているそうした人たちがわれわれと同じ枠組みで処罰されるということに異常さを感じている。

まぁ家族を盾に取るのはやくざの常套手段だと思うのでこの発言についての違和感は拭えないわけだが、それを差し引いても、

日本国憲法 第11条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

に悖る。
これは当然犯罪組織に所属していようと、むしろ犯罪を犯して抑留される立場になったとしても守られなければならない。犯罪者や容疑者を劣悪な環境に置いて扱うのはアウトだし、明確に立件できていない状態で犯罪を犯す恐れが高いと決めつけるのもアウトだし(そもそも「疑わしきは罰せず」という法治国家の原則に外れる)、それで不当に交際の自由を侵害するのは違憲(法律に規定があろうとなかろうと不当だが)だと思う。

それでは暴力団の行為がすべて人権による自由権の保障によって合法的だと見なすのかといえば、当然そんなことはない。事務所で銃を乱射したとかは置いておくとして、飲食店から営業料を徴収するといった活動は、法の規定はわからないが多分恐喝罪かなにかで違法になるのだろう。なんにせよ、そういう個別の活動が法に照らして裁かれるべきものである限りにおいて、ひとつひとつ審議して処断すべきなのであって、存在そのものを「犯罪的」とみなし、危険でも違法でもなんでもない日常的な活動についても処罰の対象にする、というのは許されない話である。
推定無罪の原則については裁判所も以下のように見解を述べている。

立証責任とは何ですか – 裁判所ホームページ
http://www.courts.go.jp/saiban/qa/qa_keizi/qa_keizi_22.html

治安維持というのも同様で、犯罪(そもそもそれがどういう意味で犯罪なのかも重要だし、何の犯罪なのかを一方的に決める権限を警察や検察は持っているわけで、例えばデモに参加して警察に触ったら公務執行妨害だったりする)を犯す可能性が高いから予防的に取り締まる、というのでは、推定無罪もくそもない。本当に推定無罪の原則に沿って捜査が行われているかどうか怪しいといえばその通りではあるにせよ、その原則をかなぐり捨てるような法整備がなされたわけである。

とはいえ法律的に考えてこの条例がどれほどヤバいかについてより、心情的には、誰かが誰かに「ここからいなくなれ、消滅せよ」と言ってしまう社会そのもののほうがもっとヤバい。同様に社会から排除されうる人々のカテゴリはいろいろありうる。仮にそのカテゴリに自分が入ることは今後ないとしても、そういう殺伐とした、公権力や「世間」からの承認を常に必要とする社会に生きていたいのか、ということだ。
高学歴高齢ニートは税金を無駄に使った挙句の社会のゴミだから死んだ方がいいですか?
喫煙者は医療費をどぶに捨てる社会のゴミだから死んだ方がいいですか?
ADHDでデスクワークが困難な人は労働の義務も果たせないクズだから死んだ方がいいですか?
小児性愛者は子供に危害を加える危険物だから死んだ方がいいですか?
同性愛者は次の世代を作らず少子化を加速する穀潰しだから死んだ方がいいですか?
エロ漫画家やBLライターは性の低年齢化や同性愛や小児性愛をそそのかす死の商人だから死んだ方がいいですか?
こういうことを平気で言い出すんじゃないかと思うのだ。
これらにひとつでも「そうかも」とでも思ったあなた、わたしはあなたのことを本気でヤバいと思う。


もちろんこの組長のインタビューが全面的に正しいとは思わない。やくざ組織は犯罪者予備軍が社会に放り出されるのを防いでいるのでやくざ組織がなくなると犯罪がなくなるどころか増えるという趣旨だが、これはつまり組織的犯罪を行わなくても個人が犯罪を犯すだろうという予測を述べているわけで、上に述べた推定無罪と対立する。結局同じようなことを言っているわけだ。まぁ、正直確度の高い予測だろうとは思うのだけれど。
加えて、犯罪組織がなくなっても犯罪者は減らない、からといって、対策そのものを取ることに意味がない、という考え方もちょっとおかしい。問題がゼロにならないから問題に対する対策には意味がないと見なすよりも、少しずつ減らしていくと考える方が妥当だし成功率は高い。もちろんその方法はすべてひとつひとつ念入りに検討されるべきである。めんどくさいから多少誤爆しても一網打尽にしてしまえというのではダメだ。
学校の勉強が苦手な人は社会の底辺に追いやられる教育と社会の構造の改善とか、貧乏人はますます貧乏になっていく経済システムとか、人権を侵害せずともやれることはいろいろある。

ここからは結論の出ていない話。
治安って結局なんなんだろうなと思う。治安維持という言葉から直ちに連想するのは犯罪者の予防的取り締まりに加えて思想犯の予防的抑留や活動の制限といったものである。わたしとしては後者の印象が強いが、実際なんらかの暴力にさらされる危険を減らすという意味では、多分必要なものなのだろうと思う。少なくとも、例えば夜道を女性がひとりで歩く必要があるような状況で危険を感じずに済むような環境はどのように作り出せるのだろう。
警察やめて自衛組織を作るとか? 「あ、今日自衛なんでお先に失礼します」とかいって残業を切り上げられるような社会だったら、それはそれで別の意味で暮らしやすくなりそうである。

あと、組長の発言を「ポジショントーク」として非難しているコメントをいくつも見た。
ポジショントークだから悪いのか? 自分の立場でものを言わない人間がいるだろうか。発言内容が妥当かどうかで判断すべきだと思う。その上でたしかにおかしいところがある。それでいいじゃない。相手の発言の動機自体を責めるというのは非難のための非難でしかない。