文系大学院生とニート

世間のルールに背を向けろ / phaのニート日記
http://d.hatena.ne.jp/pha/20110803/1312379732#c

人によってそれぞれ適性が違うというか、ある人には当たり前にできることが他の人には全くできなかったりする。それはなんでなんだろう、努力が足りないとかコツを知らないとかそういうことなのか? 思えばそんなことばかりに悩んでいた10代20代だった気がする。結局僕が30歳前後で辿り着いたのは「人はそれぞれ性質が違うし向いている場所も違う」「世間で一般的とされているルールや生き方は、それが特に苦痛でない多数派の人向けのルールに過ぎない」「努力が足りないのではなく適性が違うということを考えるべき」「世間で一般的なルールに従わなくても、なんとか死なずに生きてて、たまに何か楽しいことがあればそれでいいんじゃないの」という考えだった。

phaさんの書いていることの主題とはずれるのだが(私は世間的には一応有名どころの院生ということになっているし、記録上は研究も進んでいることになっているので、ニートの社会的な問題性が私にとっての問題の核心ではない)、普通の人がどうにか我慢してやっていけることがどうしてもできないから大学院に逃げてきた、というコンプレックスに関わるように思えた。
世の中の普通の人がどうにか我慢してやっていけること、あるいは楽しみを見出して積極的に関わっていけること、それは具体的には働きたい就職先を探し、そこに自分を売り込み、そして就職できたら毎日決められたように出勤して決められたように仕事をこなし、帰宅してまた翌朝も遅刻しないように仕事に行く、ということだ。いやもちろん他にもいろいろあるけど、ここではそういう、普通の人なら不満はあれど普通にこなしていて、そうしなければ生きていけないような類のものについて書いている。

コンプレックスというのは(その原因がどうあれ)不条理なもので、どうにもならないんだから引き受けるしかないものや、別にそれができなくたって他に方法がないわけではないものについて、どうしようもなく自分が劣っていて仕方がないように思えてしまうことがある。上に引用したphaさんの意見のような考えに、私だってたどり着いたことがないわけではない。
誰かにとって容易な、もしくは可能なことが誰にとっても容易で可能なことではないし、無理して合わないことをやろうとすることが常に正しいとは限らない。あることが自分に向いていないと早々に断定を下してしまう問題はあると思うけれども。私はほとんどいつも「研究も向いてないなー」という思いと格闘している。

phaさんは自分にあった生き方としてニートを選んだという。私は同様の理由で研究者になりたい。無論ニートと研究者は同じではない。アオムシコバチよろしく一歩間違えば研究者の卵は容易にニートとして孵化することになるが、それはまた別の問題。


私はとにかくじっとしているのが苦手だ。これから何十分、何時間、じっとしていなければならないと想像するだけで不安になってくる。授業は開始後数分でそわそわしてきて他のことがしたくなってくるし、バイトでも同じ場所で同じ作業をあと何時間と思うと最初からろくに手につかない。
会社勤めはそれが毎日毎日、何十年にも渡って続くわけだから想像もつかない。当然今日は調子が悪いから寝ていたいとか、神経が疲れてつい深酒して翌朝寝過ごしてぼーっとしてるとか、そういうのは許されない。

そして私は、そういうのに耐えられるようになることが大人だとか社会適合であるとか考えるし、それがいつまで経ってもできるようにならない自分は社会不適合の子供だと思わざるを得ない。寝ていたいとか深酒したとかが甘えだといわれれば、実際そうかもしれないと思ってしまう。

では、大学院はそういう人間を許容する場所なのか。
周りの研究者の卵たちは、イメージにあるほど変人ばかりじゃない。少なくとも私に見える範囲では、他人と全然うまくやっていけない人とか、本さえ読んでればほかのことはどうなろうと構わない人とかは見かけない。むしろ、いい家庭で丁寧に育てられて基礎学力も教養も礼儀もあって、常識も備えててお金もある程度あって心身共にバランスのとれた生活を送っているように見える。
文系の大学院だからだろうか。そんなもんだろうか。

自明だが、おそらく程度問題だろう。もしくは学生だから単に甘えが許されているように見えるだけで、たまりにたまったツケがそのうちまわってくることになるのかもしれない。博士をだらだら終えて業績欄がまっしろだったりしたら、それは確かに許容されないやりかただったのかなと思うだろう。
結局のところ、修士のなかばの段階ではわからないとしかいえない。
だが、院生に関しては学生だからってことで甘えが許されるともあまり思っていない。
大学院に所属し研究をすることで収入を得ているわけではない。だが、心情的にはそこに問題の焦点があるようにはあまり思えない。お金もらってるんだからちゃんとやれ、というのは説得力がある、というより人を黙らせる力がある。だが、これからも同じようなことを続けていって、あるときそれが収入につながるようになる、という意味において、本質的に差があるわけではないんじゃないか。お金もらってないから適当でいいやってやってるといつまでもお金はもらえない。

「お金をもらえるだけ働くべき」という主張に読まれると、わかりにくいけど、それはちょっと違う。「ちゃんと働けないけど何とか生きていく方法が許容されてほしい」と思う。それがベーシックインカムであれ、なんらかの才能の切り売りであれ、会社勤め以外の方法の仕事であれ、何らかの収入につながればいい。世間並みでない人が生きていけない世の中だと私は非常に生きにくい。
収入がまったくないと生きていくのはかなり困難だ。自明だけど。だけど、収入を得る方法がひとつ(求められる基本的な能力が同じという意味において)しかない、会社や役所なんかに勤めるしか方法がない、というのって、どうなんだろう、やっぱりあまり豊かな社会じゃないと思う。

で、こういう主張に一番敏感に反応するのが、サビ残バリバリのサラリーマンとか薄給のプログラマとか、必死で働いてそこそこの収入を得ている人だ。そりゃそうかもしれない。なんとか我慢して働いてるのに、それを我慢する必要はないなんていわれれば頭にくるし、それしか方法はないのだと言いたくなるだろう。
そういう人たちが選択肢の少ない社会を再生産している、とは思うけれど、それをあまり責める気にはならない。ベーシックインカムなんて特に、自分が必死で働いて得た給料と同じだけの額を、何もしなくてもよこせと主張する連中は、確かに不埒な怠け者に見えるだろう。自分がいままでやってきてこれからもやっていく生き方を否定されたように思うだろう。

ベーシックインカムは最低限の生活を保障するというだけであって、誰もが平等に金持ちニートになる制度にはどうやってもならないと思う。競争が必要なくなったら誰も頑張らなくなるというが、そもそも競う気のない人が競争から脱落したって上位の争いは変わらないだろう。そんな人たちの尻を叩いて走らせる必要がどこにあるのか。ちんたら走ってる奴を見ると腹が立つというのなら、そんな奴気にしないで自分だけ前に行けばいいのに、と思う。